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「ら抜き言葉」中省略的竟然不是「ら」?

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「見れる」「食べれる」といった「ら抜き言葉」。一部の人には評判があまりよろしくない使い方ですが、文化庁の2015年度「國語に関する世論調査」では、「ら抜き言葉」を使う人が、使わない人の割合を初めて上回りました。

ing-bottom: 66.72%;">「ら抜き言葉」中省略的竟然不是「ら」?

「見れる」「食べれる」這樣的詞語被稱爲“省去ら的詞語”,有一部分人認爲這是一種不正確的使用方法,在文化廳2015年度的“關於日語的輿論調查”中顯示,使用“省去ら的詞語”的人的比例首次超過了不使用的人。

ツイッターで話題に

在推特上成爲話題

最近、ら抜き言葉に関するツイートが話題になりました。11月3日に投稿 された「島田教授の日本語史講座、面白すぎる! 『ら』抜き言葉で抜けてるのは『ら』じゃなかった!」。

最近,關於“省去ら的詞語”的推文成爲了熱門話題。它就是11月3日在推特上投稿的“島田教授的日語史講座太有趣了,“省去ら的詞語”中省去的其實不是「ら」!”。

講義資料のパワーポイントを映したスクリーン の寫真と一緒に投稿されたこのツイートは、3萬3千件以上のリツイートを獲得しました。抜けているのは「ら」ではないというのはどういうことなのでしょうか?

隨着這條推文一起發送的還有講義資料PPT的照片,轉發量超過了三萬三千次。省去的如果不是「ら」,那會是什麼呢?

話題となった講義を擔當したのは、二鬆學舎大學の島田泰子教授。ことばの歴史的な変遷を研究する「日本語史」という分野を専門にしています。

這個話題課程的授課人是二鬆學舍大學的島田泰子教授。他專門研究的是關於詞語變遷歷史的“日語史”。

この講義は、20人程度の小さな勉強會で行ったもの。ツイッターに寫真をアップしたメンバーを含め、參加者はみな顔見知りという非公開イベントだっただけに、ツイートへの大反響には島田教授も「予想外でびっくり」。

這是一個只有20人左右的小型學習會上進行的課程。包括推特上發照片的成員,參加者都相互認識,僅是一個非公開的活動,在推特上產生如此大的反響也讓島田教授“大吃一驚”。

本人に話を聞きました

我們請教了島田教授

島田教授によると、「ら抜き言葉」はその名のとおり、可能の助動詞「られる」の「ら」が抜けたと取られるのが一般的。しかし、抜けているのは「ら」ではなく「ar」だ、とする見方も成り立つのだそうです。

據島田教授說,「ら抜き言葉」正如其名,一般認爲省去的是可能助動詞「られる」中的「ら」。但其實省去的不是「ら」而是「ar」,由此這一觀點也就成立了。

「見られる→見れる」「食べられる→食べれる」の変化をローマ字で書いてみると「mirareru→mireru」「taberareru→tabereru」となります。こう書いたときに、途中にある「ar」が抜けていると見ることもできます。

「見られる→見れる」「食べられる→食べれる」的變化用羅馬字來表示的話,寫作「mirareru→mireru」「taberareru→tabereru」。這樣一寫出來就會發現中間的「ar」被省去了。

「見られる」「食べられる」から「ar」が抜けて「見れる」「食べれる」と見ることもできます。(出典:島田教授の講義資料より抜粋)

從「見られる」「食べられる」中省去「ar」就變成了「見れる」「食べれる」。(出自島田教授的講義資料)

この「ar」抜き現象、「ら抜き言葉」に限らず、可能表現全般に起こっているというのです。

這種省去「ar」的現象不僅僅限於「ら抜き言葉」,它發生在所有的可能表現中。

「行く」「歩く」の可能形として使われている「行かれる」「歩かれる」。「用事があって行事に行かれない」「そんなに遠くまで歩かれない」など、特に上の世代や、かしこまったシチュエーションなどで使われています。

「行く」「歩く」的可能態是「行かれる」「歩かれる」。“因爲有事兒無法去參加活動”“走不了那麼遠”等,特別是在上一代,還被使用在恭敬的場合等。

この表現に対して、室町時代ごろから「行ける」「歩ける」といった可能動詞が生まれ、もともとあった「行かれる」「歩かれる」と併用されるようになりました。若い人には「行ける」「歩ける」の方がなじみ深いかもしれません。

對於這個表現,從室町時代開始產生了「行ける」「歩ける」等可能動詞,和原本就有的「行かれる」「歩かれる」並用。年輕人可能對「行ける」「歩ける」更加熟悉。

「行かれる」「歩かれる」から「行ける」「歩ける」といった可能動詞が生まれました。(出典: 島田教授の講義資料より抜粋)

從「行かれる」「歩かれる」中產生了「行ける」「歩ける」這樣的可能動詞。(出自島田教授的講義資料)

「行かれる→行ける」「歩かれる→歩ける」の変化をローマ字で書いてみると「ikareru→ikeru」「arukareru→arukeru」となり、「ar」が抜けていることがわかります。

「行かれる→行ける」「歩かれる→歩ける」的變化用羅馬字來表示的話,寫作「ikareru→ikeru」「arukareru→arukeru」。便可得知省去了「ar」。

「行かれる」「歩かれる」から「ar」が抜けて「行ける」「歩ける」と見ることができます。(出典: 島田教授の講義資料より抜粋)

從「行かれる」「歩かれる」中省去「ar」就變成了「行ける」「歩ける」。(出自到島田教授的講義資料)

この変化を、大きな枠組みの中で可能表現全體の歴史的な動向として捉えようとするのが、ツイッターで話題となった、「ら抜き言葉」は「ら」抜きではなく「ar」抜き、という見方なのです。

想要把這個變化作爲大結構中可能表現的整體歷史動向來把握,但在推特上成爲話題的是:「ら抜き言葉」省卻的不是「ら」而是「ar」這一觀點。

「ら抜き言葉」は「ら」抜きではなく「ar」抜き、と見ることもできる。(出典: 島田教授の講義資料より抜粋)

可以看出「ら抜き言葉」省卻的不是「ら」而是「ar」。(出自島田教授的講義資料)

この「ar」抜きという捉え方は、島田教授が発見したものではなく、研究者の間では共通認識なのだそうです。今回の反響に「私たち研究者にとっての當たり前のことのいくつかは、世間の人にとっては新鮮に見られるのかもしれません」と島田教授。

省去「ar」的這一觀點並不是島田教授發現的,好像在研究者之間達到了普遍的共識。關於這次的反響,島田教授說道:“對於我們研究者來說是理所當然的事,但是對普通人來說可能會感到很新鮮。”

「ar」が抜けるメカニズムについては、「動詞+助動詞」という組み合わせで可能を表現していた時代から、一語化した「可能動詞」が成立した、と説明できますが、ではそこで抜けるのがなぜ「ar」なのかについては、「説明は難しい」とのこと。「こういった言葉の大きな変化には、言葉自體に仕組まれたメカニズム、社會の変化など、いろいろな要因が関係している」と話します。

關於省去「ar」的結構,是從用“動詞+助動詞”的組合來表現可能的時代開始,便成立一語話的“可能動詞”,雖然可以這麼解釋,但是關於這裏省去的爲什麼是「ar」,“是很難解釋的”。“這樣的詞語發生變化與詞語自身的結構、社會的變化等各種各樣的因素都有關係”。

本當に伝えたかったことは…

其實想傳達的而是…

ツイッターでは「ら抜き言葉と『ar』抜き言葉」が大きく取り上げられました。しかし、島田教授が本當に講義で伝えたかったことは、「言語の時代差と世代差」だったそうです。

在推特上被拿出來議論是「ら抜き言葉と『ar』抜き言葉」(省去ら的詞語和省去ar的詞語)。但實際上島田教授想在課程中傳達的是“語言的時代差和世代差”。

長い時間をかけて生じた言葉の「時代差」と、祖父母世代と孫世代が共存する中でリアルタイムに起こる「世代差」のふたつは、「別ものと思われているけれど、実はひと続き」で「スケールが違うだけ」と話します。

長時間中產生的詞語“時代差”和祖父母輩與孫子輩共存中實時產生的“世代差”,一般來說是不同的,但實際上是相關聯的,只是規模不同。

「行かれる→行ける」の変化が出だしたのは、室町時代ごろ。対して「見られる→見れる」のいわゆる「ら抜き言葉」が登場しだしたのは、大正・昭和時代からだそうです。

發生「行かれる→行ける」變化的是在室町時代,而「見られる→見れる」這種所謂的「ら抜き言葉」的登場,是在大正・昭和年代。

「行かれる→行ける」のように、長い時間をかけて生じた言葉の「時代差」については、私たちも「言葉は移り変わるもの」と許容しがちです。

正如「行かれる→行ける」一樣,對於長時間中產生的詞語的“時代差”,我們也很容易接受“詞語是不斷變化的”。

しかし、「見られる→見れる」という、祖父母世代と孫世代が共存する中でリアルタイムに起こる「世代差」については、「正しい日本語ではない」「日本語が亂れている」として許容したがらない傾向があります。

但是,「見られる→見れる」這種,在祖父母輩與孫子輩共存中實時產生的“世代差”,作爲“不正確的日語”“會擾亂日語”而不容易被接受。

リアルタイムに起こる変化は許容したがらない?(出典: 島田教授の講義資料より抜粋)

實時產生的變化是不容易被接受的麼?(出自島田教授的講義資料)

島田教授は「『ar』抜き現象は室町時代ごろからの長い流れ。その一部である『ら抜き言葉』だけがクローズアップされ、言葉の亂れとして睨まれがちです。ですが、長い目で見れば、昔から起こっている変化なのです」と話します。

島田教授說道:“省略『ar』的現象從室町時代就開始了。只有作爲其中一部分的『ら抜き言葉』被提出來,容易被當做作爲錯亂的語言,但是長時間來看,這是從以前就發生的變化。”

ツイッターでは「『行かれる』『歩かれる』が使われていた時期ってホントにあるの?」とのコメントもありました。島田教授は「『行かれる』を知らない人がいるということは、『行かれる→行ける』の移行が完了したのかも」。

在推特中也有評論寫道:“真的有使用「行かれる」「歩かれる」的時期麼?”稻田教授說道:“有的人不知道「行かれる」可能是因爲「行かれる」已經過渡到了「行ける」”。

「ら抜き言葉」、許容できる?

能接受「ら抜き言葉」麼?

島田教授は「言葉は生き物で、短いタイムスパン でも変化するもの。小さな変化の積み重ねが大きな流れを作り、人間がささやかな抵抗をしたところで、とうてい止められない場合もある」と話します。

島田教授說:“語言是活的,即使是較短的時間間隔也是會發生變化的”。小變化的不斷積累會變成大的潮流,即使人們會有微微抵抗,但最後也會無法阻止。”

また、「言葉づかいが、話し手の知性や品性を表す目印となる場合もあるため、世代を超えて通じる『正しい』日本語を身につけることは、もちろん大切。しかし、日本語を研究する人間としては、新しい世代の新しい言葉づかいに対して、『正しい』『正しくない』だけではなく、『言葉が変化している』というまなざしも持ってほしい」と期待しています。

另外,島田教授期待的說:“措辭有時代表的是說話人才智和品行,所以,掌握不同年代都知道的“正確的”日語當然很重要。但是,作爲一個研究日語的人,對於新時代產生的新措辭,不能僅僅看“正確” “不正確”,也要意識到“語言是正在變化的。”

ちなみにこの講義…

順便說一下關於這個課程…

ところで、講義のスライドの上部に「日本語史研究と地形・地図學」とあるのに気が付きましたか? 実はこの講義、日本語に関する勉強會ではなく、地形趣味のサークル「東京スリバチ學會」主催の勉強會で開かれたものでした。

話說,課程的PPT的上方寫有“日語史研究和地形・地圖學”,你發現了麼?實際上這個課程並不是關於日語的學習會,而是地形興趣小組「東京スリバチ學會」主辦的學習會。

地図や地形が好きな島田教授によれば、「人に歴史あり、ことばに歴史あり、大地に歴史あり」。歴史的な背景を知ると、ものの捉え方がぐっと深くなる…というのは、どんな分野にも言えることだそうです。

據地圖地形愛好者的島田教授說:“人有歷史、語言有歷史、大地有歷史”。瞭解歷史的背景,看事物的觀點會更加深入…不管對那個領域都是可以這樣理解的吧。

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